東国原知事が提言しましたね。
教師の愛のある軽い「体罰」を認めるもの。
議会を通したりとか現実味のあるものかはわかりませんが。

僕は大反対です。
痛みによって学ぶのもが無いとは思いませんし、
腕のある教師なら「体罰」をうまく使えるかもしれません。
しかしその行為こそやってはいけないと教えるべき暴力ですし。

また、「体罰」をコントロールできるかというところにも疑問を感じます。
昔ドイツである心理学の実験が行われました。20人の被験者を看守役、囚人役に半分ずつ分けられ、囚人役には6つのルールがかせられるというもの。
実験であるという認識がありながらも看守たちが瞬く間に暴力的になり、理不尽になり、次第に信じられないほどエスカレートしていきます。
「es」として映画化されて話題にもなりました。

つまり限定された世界で誰かの優劣を明文化したり、権限を認めたりすると、無意識的に潜在的な攻撃本能が表に出て、上の人が優越を見せ付けようとします。それほど「状況の支配力」というのは「理性」に比べ強いのです。

以上より体罰で押さえつけるのは反対です。。

うちの学校でも叱るのになめられている教師がいた一方、全く叱らずいつもにこやかなのにみんな真面目に授業に取り組むような教師もいましたし。

あ、映画「es」は強烈にお勧めします。ものすごいリアリティで描かれているのでいろいろ考えさせられます。無論ノンフィクションです。

コメント

nophoto
15夜お月さん
2008年6月23日12:34

ご意見に同感です。
今、宮崎では、抗議活動を起こそうと準備中です。
http://ameblo.jp/15yaotuki3/

jpnetTKT
testest
2008年6月23日14:55

私は愛のムチは賛成です。
他人の子はどのように育とうと知ったこっちゃないですが、
自分の子にはビシバシ引っ叩くなりして貰いたいです。
もちろん私もビシバシやる予定です。

子供が悪い事をしたら2度繰り返させないようメモリーさせる。
言って学習してくれるなら苦労はありません。

伝える人によって上手い下手はあります。
ただそれは受け手にも言える事。
想いがあって2度と繰り返してはならない事は
瞬間的に殴って叱るべきです。

また例に出された『看守と囚人』の関係は『教師と生徒』のものと同じではありません。

愛弓灰
愛弓灰
2008年6月24日16:00

>15夜お月さん
そうでしたか。。僕はそこまで行動的でも強い意見を持っているわけでもないですが。
法案として通りそうになったりしたら抗議活動もいいかもですね。

>testestさん
えーと、、確かに手段として上手に使われれば効果的ではありますね。
しかし殴っても止まらない、もしくは悪化する場合もあります。
それは暴力が教訓ではなく心の傷を形成してしまった場合です。
おっしゃるとおりそれは受ける側の上手下手でもあります。
でもだからこそ適切な体罰の見極めが難しいのだと思います。

また、そもそも僕は「殴る」という行為そのものが2度と繰り返してはならない悪い事と考えております。
例えば友達を殴った子供を殴って叱ったら想いは伝わらないと思うのです。
目的は手段を正当化しないと思うので。

あと上の日記で述べたのは主に極端な状況への懸念です。
温厚的や「人格のできた」人間が、閉鎖空間で破壊的、支配的になるという二面性をあらわす場合があります。
そういった上の立場の人に対し暴力の権利を明文化すると、教育の範疇を超えた行為へのエスカレートを止めるきっかけがなくなると思うのです。
また、体罰の権利の明文化は「教師は生徒に対して支配的たれ、優位であれ」というような印象を与えかねませんから、そういった場合は『看守と囚人』の実験で報告されたような、意識の外で状況の力に支配されるというような効果を与えかねないのでは。という懸念を言うために映画「es」の例を挙げました。
この例に関しては無理があるようでしたらお詫びいたします。
そもそも映画「es」はおもしろいですよーという宣伝色も強くてm(_ _)m

というより社会経験も乏しい未熟者が長々と申し訳ございません。
非常に理性的に考えているつもりなのですが、過去に嫌な思いをしたりしている関係で感情が混ざっていいるかもしれませんm(_ _)m

お二方、コメント本当にありがとうございました。

jpnetTKT
testest
2008年6月28日9:03

子供より大人が優位に立つのは自然な事です。また、大人が子を叱り飛ばすの難しい事はありません。
難しくしているのは大人の『子を叱る概念や手段』であり、子は黙って叱られ心を入れ替えれば良い。

殴る事に抵抗のある大人は幼少期に殴られる愛を経験してないのか、幼少期の当時に殴られても理解できなかった可哀想な人だと思います。

あなたは殴って叱る事を経験してみるべきです。怖くて仕方なく従うという『恐怖』は主に悪い例に使われますが、そうではありません。善悪の見境のつかない子供には必要な事の1つです。

学習には怖いと思う要素が不可欠です。
火を触る→熱い→怖いから火で遊ばない→むやみに火を用いない
他人を傷つける→被害者に申し訳ない→逆に自分が傷つけられたら嫌だ(怖い)→周囲の人に優しく接する
子供の頃から繰り返してきた内容です。
学習の場を家庭から学校という公の場に変えてもそれは変わりません。

先日のニュースでみた学校の天窓から児童が落下した事件でも、児童の危険認知能力が欠如してたとしか思えません。残念ながら死亡した児童に対し微塵も可哀想と思えません。
「●●したら危ないだろうな」という危険への想像力がなさすぎた結果です。これは教える物ではなく、子供が日々の生活の中で養うべき人間として大切な恐怖への想像。

大人になると全てが恐怖に包まれます。
私が死んだら嫁はどうなるんだろう。子は生きていけるのだろうか。
この仕事が完成しなかったら相手先への迷惑は如何程だろうか。
挙げ始めたらきりがない程の心配事に囲まれます。
子は漫然と身体を大きくしお勉強を積み重ねればいいものではなく、大人への準備が本来です。

自分で善悪の見境もつかない子供が身の安全を確保しつつ、何かを覚えようなどチャンチャラおかしいです。物事には全てリスクがあります。大人になれば首を吊らなくてはいけないようなリスクを負うことも無い訳じゃない。たかが1発2発の体罰に何を甘えた事をと思う次第です。

言葉だけで全ての問題がお互いに理解し合えるなら、創世記以来戦争など起きません。到底無理な事です。貴方の言うことは甘すぎます。

愛弓灰
愛弓灰
2008年6月30日11:19

暴力が暴力を止められないからこそ創世記以来戦争が止まないのだと思いますが。

そもそも人間には本能的攻撃欲求があって・・・と反論したいのですが、僕は人と徹底的に議論して心理を突き詰めたいと考えるところがありまして、反論を続けると不快感を与えてしまいかねないのでこの辺りで自重しておきます。

この事で親や友達とギクシャクしてしまうことも数知れず・・・(><) 議論好きの方ならむしろそこから打ち解けたりもするのですが。。。

お気を害されないようならおっしゃっていただければ議論します。僕は議論好きなので。もう害されたようなら・・・すいませんm(_ _)m

jpnetTKT
testest
2008年6月30日17:58

議論するほどのものは持ち合わせていませんし、論破した所でその先には何も得る物がありません。
なぜならば察するにただ“議論”を欲しているように思え、私の望む所とはゴールが違いすぎます。

色々と頑張って下さい。

愛弓灰
愛弓灰
2008年6月30日18:55

うーん、そうかもしれませんね。
どうもすみませんでした。

>色々と頑張って下さい。
はい、ありがとうございます(><)

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